はじめに
堀裕嗣先生と宇野弘恵先生は北海道を代表する教師です。授業づくりや学級経営、仕事術など教育に関わる様々な内容で本を書かれています。全国的にも大変有名な先生なので、このブログを読んでくださっている方の中にも、ご存じの方が多くいらっしゃるのではないかと思います。
堀先生の10・100シリーズは、私が教員のスタートを切った頃に出会った本です。これらの本がなければ今の私は教師を続けることができなかったといったも過言ではありません。今でも読み返しています。
また、私は4年前に小学校教員資格認定試験を受験しました。その際、宇野先生の書籍を多く読ませていただきました。どの本も大変わかりやすく書かれており、小学生とほぼ接してこなかった私でも、内容がスッと入ってきました。そのおかげで何とか合格することができました。
そんなお二人が書かれた『教職の愉しみ方 授業の愉しみ方』(明治図書)を読み終えました。発売前から楽しみにしていた本です。3週間かけて3回読みました。今ちょうど3回目を読み終えたところです。
今回の記事は、自分が今感じていることを素直に書き残しておきたいという気持ちが強いです。読んだ勢いのまま書いている部分もあります。ですが、止める気はありません。
『教職の愉しみ方 授業の愉しみ方』から得た学び
この本を1回目に読んだ時は、「すごいな〜自分も改めてお二人の先生のようになりたいな。教材研究頑張ろう!」といった対談型の自己啓発本を読んだ時のような感想でした。
2回目に読んだ時は、「今の自分は到底お二人のような先生にはなれない」といった、本を通した自己対話から、ある種の自己嫌悪が生まれました。
3回目に読んだ時は、2回目よりもさらに自分と対話しながら読んでいました。本から学ぶというよりも「自分の価値観は絶対なのだろうか?」、「教育という仕事を教育という枠組みでしか見れていないのではないか?」、「自分は、誰のために授業をしているのだろうか。子どものため?自分のため?保護者の満足のため?」など、自分という人間と深く向き合う時間になりました。
私にとって本書からの最大の学びは、自分という人間と深く向き合うこと、そして、その行いをやめないということです。
私がこの本の各章にそって書かれている内容を解説していくことはできません。お二人の伝えたいことを理解できている自信がないからです。お二人にはそのような意図はないにしても、正直、この本に書かれていることは畏怖の念を起こさせます。
教材開発について
この本を読んで思い出したことがあります。
特別支援学校の場合、知的障害が重く、身体機能が著しく制限されているお子さんとの授業では、検定済み教科書や文科省から出されている教科書(通称:星本)を使用しながら学習を進めることは難しいことが多いです。そのため、授業のほとんどは教師のオリジナル教材を使用します。
だからこそ、教材開発は特別支援学校教員の授業づくりにおける大きなウェイトを占めていると捉えています。教師の主体性も強くでます。
私は、特別支援学校教員の教材開発とは、何か子どもが喜びそうな新しい教材を見つけるだと考えていました。ところが、最近になってそうではないことが何となくわかってきたような気がします。では、教材開発とは何か?宇野先生の言葉を引用させていただくと、下記のように示されています。
教材開発とは、教材をどう解釈するかということです。教材にどんな問いを見つけるかということです。
堀裕嗣・宇野弘恵『教職の愉しみ方 授業の愉しみ方』(明治図書)p126
10年ほど前、マイケルローゼン『きょうはみんなでクマがりだ』(評論社)という絵本を基に国語の授業を行なったことがあります。絵本に出てくる子どもたちが、クマがりに向かう臨場感を、太鼓や鈴などで演出しました。川を渡ったり、嵐の中を抜けようとしたりする困難さを、紙テープや扇風機を用いて体感できるようにしました。絵本の中には同じようなフレーズが何度も出てきます。その部分をリズミカルに教師が表現することで場が明るくなります。子どもたちの反応も良く、楽しく学習を進められました。
それで満足していました。これこそ自分なりの教材開発だと。
ですが、それは間違いでした。
改めて、自分には宇野先生がおっしゃる教材の解釈や問いというものが圧倒的に足りていなかったと自覚しています。この授業を行ったのは知的障害と肢体不自由がある高等部の生徒です。教科は国語。教材化するにあたり『きょうはみんなでクマがりだ』の絵本は10回程度しか読んでいません。この絵本を通して私は何を教えたかったのだろうか。クマがりとは何なのだろうか。そもそも現実にクマがりをしている子どもがいるのだろうか。全く考えることができていませんでした。何となく子どもが喜びそうだからと思ってやってみて、ねらい通り子どもたちが喜んでくれたから悦に入っていたのだと思います。
いえ、正直に言えば「障害がある子どもだから喜んでくれるだろう」という思いです。今思うと特別支援学校教員失格だと感じます。
そんなことを自分で言語化できるようになったのも数年前からです。今回堀先生や宇野先生の文章を読むにつれ、なぜか「きょうはみんなでクマがりだ」の記憶が蘇ってきました。
「今のあなたは教材開発にどう向き合っているのですか?」こう問われているような気がします。
※誤解があるといけないので書きますが、『きょうはみんなでクマがりだ』という絵本はとても面白い本です。また、障害がある子どもにとって国語の学びの要素を多く含んでいると思います。実際私以外の先生が、この絵本を使って音韻の捉え方や、物語の順序性を指導されていました。
愉しむためには自分と向き合い続ける
もう一つ書きます。
採用一年目、研究授業終了後の反省会のことです。とあるベテランの先生から「もつ焼き先生の授業は、初任者の授業にしてはまとまっている。ICT活用も積極的でこちらが学ぶことも多くあった。だけど、もつ焼き先生の授業は誰のための授業かわからない。厳しく言うなら、授業の中身、芯がない。授業のようで授業ではない。」といった言葉をいただきました。一言一句とまでは言いませんが、かなりはっきりと記憶に残っています。
この言葉を聞いた瞬間は、「そんなことはない!○○先生は何もわかっていない。」と生意気ながらに思いました。そして、とても心が苦しくなったのを覚えています。
反省会が終わり、私の慰めも兼ねた飲み会がありました。数名の先生と話しているうちに、授業の中身や芯という言葉がどういったものを意味するのかが朧げながらイメージできてきました。知的障害と肢体不自由を合わせ有する子どもたち一人ひとりをどのように捉えているか、身につけて欲しい力は何なのか、その子供を取り巻く環境はどうなっているのか、使用した教材を選んだのはどうしてか、指示や発問は機能していたのか・・・今思うと、私の授業は(ベテランの先生が言うように授業ではなかったのだろうと思います)きっと「死角」だらけだったのだろうなと思います。
自分の場合は、この研究授業を荒波立たせずに終わらせる、何ならアニメーションをやたらとつけたパワーポイント教材や時間をかけてつくったすごろく教材を披露する(プレゼンする)場になっていました。体裁を繕うことに特化した授業だったのだと思います。
その一方で、一丁前に授業とはこうあるべきという理想像をもっていました。障害があろうがなかろうが先生の言うことは誠意をもって聞かなければならない、活動が終わったら声を出して報告しなければならない、とりあえず子ども同士が話し合うのが良い授業である・・・書くのも恥ずかしいくらいです。片意地張らないという言葉はその頃の私にはなく、肩で風を切っていたのではないかと思うほどです。
あれから12年が経ちました。徐々に仕事にも慣れ始め、初任者の先生の指導役を担うようにもなりました。ようやく落ち着いて授業や学級経営、学部経営にも取り組めるようになってきたように感じていました。
ところがです。「教職の愉しみ方 授業の愉しみ方」は、12年前、あのベテランの先生からいただいた言葉よりも、さらに強い衝撃を私に与えてくださった気がします。
ですが、不思議と今、「苦しい」という感情は起こりません。
なぜでしょう?衝撃は強いのですが、「焦らなくていいよ、ゆっくり自分を磨き上げなさい」そんな温かさを与えていただいている感覚になります。
教職を愉しむにも力量って必要だからね。
同掲書 p165
厳しくもあり、励みにもなる言葉だと思います。
少しずつですが、今の自分は、教職を愉しむために自分と向き合えるようになってきたのかなと思っています。そしてこの営みはずっと続くのだろうなと感じています。
自分と深く向き合う機会をくださった、お二人の先生に感謝いたします。ありがとうございました。
1年に一度、いえ半年に一度、手帳に読み返す日を書き込んでおきたい一冊です。
おわりに
思いのままに書きました。まとまりがついていない文ですが、これはこれで良いと妙に自分の中で納得しています。
(これは私の想像でしかないのですが、お二人の先生は今後の教育が、未来の先生方がどうなっていくのかが心配という気持ちを抱きながらも、どこか達観した上で、今改めて必要なことを丁寧に教えてくださっているような印象を受けました。また、具体的にどこがと言われると苦しいのですが、本書の熱量の裏には、移りゆく時代を少し憂ているような気持ちも感じます。もしかしたら堀先生の著書「教師の先輩力」の後書きも合わせて読んでいたからかもしれません。)
教職を愉しむための、通過儀礼として、大切な後輩にこの本を一冊プレゼントしたいと思います。
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