会場を出て、地下鉄駅を目指す。すると古めかしい、でも清潔感のある喫茶店が諸戸の目に入ってきた。
「Harikoa」と書かれている。
一瞬立ち止まり、時計を見る。13時30分。今日は赴任日扱いなので午後からの勤務はない。
教頭は辞令交付式が終わったら学校に戻ってくるだろうといった職員室の雰囲気を感じたが、このまま学校に帰るのは何となく癪だった。
Harikoaのドアを押す。以前きた時よりも重く感じるのは気のせいだろうか。
カラン、コロン 気持ちとは裏腹に小気味の良い音を立ててドアが開いた。
「いらっしゃいませ・・・あらっ!もろちゃん!久しぶりじゃないの!!ねえねえ教頭先生になったんだって?すごいじゃない。教頭先生になるとお給料も高くなるし、あっという間に校長先生になれるんでしょ。いや〜ん、素敵ね。さすがもろちゃん、私が見込んだだけあるわ」
幸いなことに、先客はいない。話のシャワーを浴びながらカウンターに座る。店内は思っているより広い。実際のところ教員が校区の飲食店に行くのは少し勇気がいる。誰かに見られるとすぐに噂になってしまう。Harikoaは客席は多いものの、物がたくさんあるせいで、客同士の顔が見えにくい。教員にとっては好都合だ
「アイスコーヒーをお願いします」
「アイスコーヒー?珍しいわね」
「濃いめでお願いします。豆はお任せします」
「OK!」
Harikoaの店長笹井みちよはいつものように急に静かになった。職人の顔だ。グラスを用意し、そこに手際よく氷を詰めていく。そんな様子を見ながら諸戸はセブンスターに火をつける。煙草の煙が体内を循環していく。細切れの煙を時間をかけて口から吐き出す。それを何度か繰り返していると、
「アイスコーヒできたわよ。スプレモ」みちよが話しかけてきた。
「ありがとうございます」
タバコを灰皿におき、アイスコーヒーを一口啜る。目を閉じ飲み込む。口の中でタバコとコーヒーの香りが一気に混ざり合った。
「ふ〜」自然と小さなため息が出た。
「何かあったのもろちゃん。しばらく顔も見せないで。」
「ちょっと立て込んでてて、ご無沙汰してすみませんでした。・・・教頭の件、どなたから?」
「これよ、これ。」みちよは北日本第一新聞を取り出して言った。
「坂の上特別支援学校って、障害がある子の学校なの?」
「そうです、知的障害がある子供が通う学校です。昔でいう養護学校ですね」
「そうなの。てっきり中学校の教頭先生になるのかと思ってたわ。正直驚きだったわ」
「・・・私が一番驚いています。最初は中山峠中学校に着任する予定でしたから」
特別支援学校や高校は都道府県教育委員会の管轄であり、小学校や中学校は市町村教育委員会の管轄である。中学校で働いていた教員が特別支援学校の教頭になるのは珍しい。
「正直うまくやれるか不安です。障害がある子供と関わったことは少ないですし。特別支援学校に入るのすら初めてでしたから」
今まで、誰にも言っていなかった不安が口を出る。自分でも珍しいと思う。
「あら熱でもあるの?」みちよがニヤニヤしながら水の入ったポットをおでこに押し付けようとしてきた。
「でも、もろちゃんなら大丈夫よ、見かけによらず優しいから」
「それは、褒めていますか?」
「怒っちゃダメよ。ほらほら、決まったものは仕方ない。あなたのできることを最大限やればいいのよ、ミートスパゲティいる?」
一瞬迷ったが、今日は食べる気持ちにならない。
「いえ、せっかくですが結構です。これから行くところもありますし」
「そ〜、残念ね」その後もひとしきりみちよの話を聞いていた。
グラスの中の氷が溶けてきたところで会計をした。
「坂の上特別支援学校なら、ご近所さんみたいなもんじゃない。またおいでなさいな」実際坂の上特別支援学校からHarikoaまでは地下鉄で3駅である。歩いても30分程度だろう。
「ありがとうございます。また来ます」
出際にお手洗いを借りた。トイレの中にはオールブラックスのユニフォームやカンガルーのイラスト、たくましいマオリ族とみちよが一緒に写った写真が飾られている。みちよはニュージーランドが大好きなのだ。広告代理店を辞めて、数年間ニュージランドに住んでいた経験もあると聞いた。
オールブラックスのユニフォームをぼんやり眺めながら手を洗っていると、随分と明るい声がした。みちよが親しげに話している声がする。
諸戸がトイレから出ても、みちよは客と話し込んでいる。客の顔はよく見えないが常連なのだろう。こちらには気づかない様子だったので、声をかけず店を出ようとする。
その時「もろちゃん、またね〜」とみちよの声がした。軽く会釈をしてHarikoaを出る。店の扉を閉める瞬間、みちよと話していた客の顔がチラリと見えた。どこかで会ったことがあるような気もしたが、そのまま店を出る。
季節外れの雪はまだ降り続けていた。(続)
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