湿った雪が降ったり止んだりを繰り返した。幸いにも積もることはなかったが、ここ数日の学校までの道のりは足元にかなり気をつかった。
坂の上特別支援学校は、名前の通り坂の上にある。札幌市の中心部よりやや北に位置する、知的障害がある子供が通う特別支援学校だ。2007年に校名が変わるまでは札幌北養護学校という名称だった。
北海道には60校以上の特別支援学校があるが、そのうちの半数以上は知的障害のある子供が通う特別支援学校だ。坂の上特別支援学校は小学部と中学部からなる特別支援学校で全校児童生徒50名、教職員80名程度の学校である。以前諸戸が勤めていた中学校は全校生徒約360名に対し、教職員30名。特別支援学校は教員の配置が小学校や中学校に比べて多い。
教員からの相談相手になったり、ストレスの捌け口になったりするのも教頭の仕事であるため、教員数が多いというのはある意味諸戸の仕事が増えるということでもある。
「だから、教頭はどう考えているのですか」先ほどから高山靖人教諭が繰り返し口にしている言葉である。
「前任の有江教頭からは、特段問題ないと伺っていますし、校長先生も心配ないと話しています。私も同意見です」5回目のやりとりだろうか。流石に疲れてきた。
「大谷先生はまだ若い。学年主任を任せるにはまだ早いですよ。しかも小学部一年生の学年主任は仕事が多い。彼が潰れないか心配です」
「僭越ながら、私は経験もありますし、管理職試験にも合格しています。適任なのはこの高山かと」大体このような内容を繰り返している。
「校内人事は校長の権限で進められます。お話いただいた件は校長にもお伝えしますが、高山先生にしかできない仕事もあるかと思います。ぜひそちらに全力を注いでください。本校の研究は高山先生にかかっているといっても過言ではありません。よろしくお願いします。」
「まあ、教頭がそこまで言うなら仕方ありませんね。ただ、やはり学年主任に関しても・・・」
ピピピ ピピピ ちょうど電話が鳴った。グッドタイミングだ。
「すみません」小さな声で高山の話を遮り、電話に出る。
自分の席に戻る高山の姿を見ながら「お待たせしました、坂の上特別支援学校教頭、諸戸でございます」と電話にでる。この言い回しにも少しずつ慣れてきた。
「あ〜諸戸さん、北山中の山下です、入学式の祝電送りましたので確認してください」
「山下教頭、わざわざありがとうございます。」いちいち電話じゃなくても良いだろうと思いながら、二言三言話して受話器をおく。
教頭の仕事はテレアポかと思うくらい、電話対応が多い。メールでのやり取りはあるものの、依然として多くは電話での業務である。
4月1日に辞令を受け取り、4月2日から本格的に坂の上特別支援学校での勤務を開始した。覚悟はしていたが、やはり激務だと思う。ただ、やりがいはある。慣れ親しんだ中学校から、突然の特別支援学校勤務ということで正直不安の方が大きかったが、校内の先生方が協力的で本当に助かった。
きっと、「特別支援のことはわかりません。皆さん全員が先輩です。ご迷惑おかけしますが、初任者の時のようにがむしゃらにやらせてください」といった着任の挨拶をした効果も少しはあったのだろう。
高山と他数名の教員を除いては、皆さん丁寧に坂の上特別支援学校のことを教えてくれる。特別支援学校に異動してきた教員への研修も充実しており、知的障害がある子どもの特性や、関わり方といった話を、専門の医師や特別支援教育の大ベテランの教員から教えてもらう機会もあった。新鮮な学びはやはり心地良い。
明日4月5日は入学式が行われる。今日は15時から教育委員会への挨拶がある。本来は着任してすぐに伺う予定だったが、先方で緊急の対応がありこの日までずれ込んでしまった。校内は明日の入学式に向けて大慌てだ。どたばたはどこの学校も似たようなもんだと諸戸は思った。
内線が鳴る。受話器を耳に当てた瞬間「校長室に」という声がかかった。返事をしようとする間もなく電話は切れた。
職員室を出て、校長室へ向かう。向かうといっても職員室を出て5歩程度で着いてしまう。大きく息を吸ってから校長室のドアをノックする。「早く入ってくれ」と、くぐもった声が聞こえる。
「失礼します」と言いながらドアを開ける。
安房一がピアノでも弾くように指で机を鳴らしている。どうやらそこまで機嫌は悪くないらしい。
「諸戸さん、教育委員会に届け出る書類のチェックが甘いよ。教育課程編制の『編制』は『編成』だよ。軍隊じゃないんだから。後、いじめ実態調査がきているから回答を急いで」
「はい、承知しました」
「明日の入学式は本庁から指導主事が派遣されてくる。くれぐれも粗相のないようにしてくれたまえ。来賓用のお茶は事務長が用意してくれる手筈になっているが、諸戸さんからも確認をしておいてくれ」
「はい」
「30分後、本庁に向けて出発する。運転は頼む。」
「はい」
要件は済んだといったように、安房校長はキーボードを叩き始める。その様子を見て諸戸は校長室を出る。
「失礼します」
坂の上特別支援学校長、安房一。はじめという名前が伸ばし棒に見えるため、陰で「あほー」と呼ばれているのを聞いたことがある。【あぼうはじめ】校長だ。
まだ数日の付き合いだが、諸戸はこの校長に苦手意識を抱いていた。
口数は少なく、どちらかといえば俺様タイプ。上にはへこへこして、現場の教員には厳しい。この場合の上は、教育委員会のことを指す。
坂の上特別支援学校は、校長になって2校目らしい。どうも前任校の評判も良くなかったようだ。昨日誰かが話していた。
職員室に戻り、自分の席につく。たかだか10分ほど席を外しただけで決裁文書の山ができている。4月の学校はどこも同じ、書類の山だ。
ふと、現場にいた頃を思い出す。新入生を担任するときは教室に閉じ籠り必死に生徒の名前を覚えていた。あれはあれで楽しかった。入学式の時に名簿を見ないで全員の名前を呼び上げた時は教室中から「お〜」といった声が上がった。自分で言うのもなんだが器用な方だったと思う。大体の事務作業や授業はすぐにコツを掴めた。唯一苦手だったのは、後輩の面倒を見ることだった。「なんでそんなこともできないのか」「どうやったらそんな授業になるのか」そんな言葉を何度飲み込んだことか。
ふと、昨日のHarikoaの光景を思い出す・・・。やっぱり、あれは見間違いだったのだろうか。
気を取り直して、決裁を進める。
あっという間に出発5分前になっていた。慌てて職員室を出るとそこには安房校長が立っていた。
「子供には5分前行動と言うのに、自分ではできない教員が多いもんだ。どう思うかね?諸戸さん」
「・・・失礼しました」
何も言わず安房校長は玄関に向かって行った。後を追う。
職員室から高山が笑いながら何かを言っているような声がした。(続)
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