車内は想像通り、エンジン音だけが響いていた。しかもこの日は運悪く工事渋滞にはまってしまい、普段よりも車の流れが悪い。新任教頭として、校長の機嫌をとるのも仕事かもしれない。バックミラーで校長の顔を窺い見る。目を閉じている。寝ているわけではなさそうだ。好都合だと思い運転に集中する。
「諸戸さん。教育委員会とは何かね?」
「えっ?」突然問われ狼狽えてしまう。
教育委員会は教育委員と教育長からなる組織である。自治体の規模によっても違うが、北海道は教育委員5人と教育長の6人からなる。教育委員会という言葉はよく耳にするだろうが、実際にそこで何が行われているかを多くの人は知らない。地方教育行政の組織及び運営に関する法律第 21 条で教育委員会が行う職務が 19 項目にわたって規定されている。学校財産に関する管理や教員の人事、教員の研修など多くの業務を行う。当然これらを6人のメンバーで行うのは難しいため、教育委員会には教育委員会事務局が置かれている。教育委員会事務局でほとんどの案が練られ、それを教育委員らが追認することが多い。教育長は教育委員会事務局の長でもある。圧倒的に教育長に責任と権限が集中しているシステムと言っても良いかもしれない。何か学校で不祥事が起きた時に報道陣に向かって頭を下げているのは、その学校の校長と教育長の並びが多いことからもわかるだろう。・・・教頭試験に向けて覚えた事柄を必死に思い出している諸戸を見ながら校長は真顔で言った。
「よく覚えておきたまえ。教育委員会は伏魔殿だ。」
「私も教育委員会事務局に5年ほど勤めたが・・・」その後の言葉が聞こえない。工事の音が邪魔をする。安房校長はまた目を閉じた。
これから向かうのは、北海道教育委員会事務局だ。教育長をトップとして1300人ほどの事務局員が働いている。事務局員の中には、教員の身分のまま教育委員会で働いている者もいる。「指導主事」と呼ばれる。3月の離任式の際に子供達に向けて「〜先生は教育委員会の先生になります」といって紹介される教員は、指導主事になるということだ。
基本的に指導主事は教員の世界では出世コースと言って良いだろう。教員の中でもトプクラスの力量がある者が指導主事になる。反面、激務だ。帰宅が深夜になることも珍しくないと聞く。指導主事と結婚した同僚が、「旦那が半年で5歳老け込んだ」と言っていたが、慣れないうちは本当に大変なのだろう。配属された部署によって教員時代には考えたこともないような業務にあたることもある。市議会議員や道議会議員への対応もあり、責任だけではなく心身共に負担が大きい仕事であると聞く。あながち校長が言う伏魔殿という言葉も間違いではないのだろう。
激務をこなす指導主事のおかげで日本の教育は一定の水準を維持して進んでいける。これは間違いのないことだ。
だが、諸戸は指導主事が大嫌いだった。(続)
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