工事渋滞を抜け、スバルレボーグ2.0STIスポーツアイサイトは道庁近くの駐車場にゆっくりと止まった。これからが本番なのだが、一仕事終えた気になっている。エンジンを切った瞬間に校長は後部座席のドアを開け、濡れたアスファルトに降り立った。こちらを振り返ることもなく道庁に向かって歩いていく。諸戸も慌ててその後を追う。何度か浅い水溜りに足を踏み入れたがスーツは汚れていない。横断歩道で校長に追いついた。
「今日は北澤特別支援教育課課長が対応してくださる。本校を担当する指導主事の紹介もあるはずだ。」正面を見ながら安房が言う。
「10分程度だが指導主事と情報交換する時間も設けていただく予定だ。本校の現状について話しておいてくれたまえ」
「はい、わかりました」…本校の現状も何も、まだ着任して1週間も経っていない俺が何を言えるのか。今日の予定だって、突然決まったものではないだろう。一言あっても良いのではないか。そんな思いが湧き起こる。今日に始まったことではないが。
指導主事は学校と教育委員会をつなぐ役割もある。学校が教育委員会に提出しなければいけない資料などの受け取り窓口になることもあれば、何か学校で問題が起きた際は、指導主事に連絡し教育委員会全体と学校で協議、対応等のやりとりを行うこともある。重大案件は校長がやりとりするが、細々した連絡は教頭と指導主事で行うことが多い。指導主事との顔合わせは教頭にとって重要な意味をもつものでもある。
道庁に入りエレベーターで8階へ向かう。8階左手奥が特別支援教育課だ。セキュリティの関係か特別支援教育課入り口のドアはロックされている。校長は軽く咳払いすると、ドアの前にある受付用電話をとり、
「坂の上特別支援学校校長の安房です。北澤課長をお願いします。」と普段聞いたこともないような丁寧な口調で話した。
「お世話になっております、少々お待ちください」微かに男性の声が聞こえた。
10秒ほどで、見事な禿頭の男性がドアの向こうから現れた。
「お待たせして申し訳ありません、安房さんお久しぶりです」
「北澤課長お久しぶりです、今日はよろしくお願いいたします」
北澤課長がチラリとこちらを見た。
「新任の教頭先生ですね、特別支援教育課の北澤です。よろしくお願いいたします」
「諸戸剛です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
その場で名刺交換を済ませ会議室へと向かう。安房校長と北澤課長は近況を報告し合いながら歩みを進める。
「4月から主幹が三神さんになって雰囲気がガラッと変わりました」北村が言う。
「まさか三神さんが主幹になるとは思いませんでしたね。何人か元気な現場の教員を指導主事に引き抜いたという専らの噂ですが」
「そうなんですよ。うちの課は男社会ですから。一層拍車がかかった感じです。体育科出身ばかりですよ」
「三神さんらしいですね」
そんな話を聞きながら会議室に入る。清掃が行き届いている。
「すみません、担当指導主事ですが、今出張から戻ったばかりでして。間もなく来ると思います」手で椅子に座るよう促しながら北澤が言う。
「いえいえ、どうかお気になさらず」校長の言葉に合わせて、諸戸も軽く頭を下げた。
「それにしても、諸戸教頭先生。元々は中学校の体育の先生でしたよね。いかがですか、特別支援学校は?慣れましたか?」
「いえ、まだ慣れません。教頭としての仕事もままならず、皆さんにご迷惑をかけてばかりです」
「気持ちはわかります。私は諸戸教頭先生の逆パターンでしたよ。10年以上前に教頭に昇任して、最初の赴任校は道北で一番規模の大きい中学校でした。あの時は正直転職したような気持ちになったものです。」
「そうですか」
「月並みですが、あの時の経験が今に生きているなと思う部分はたくさんあります。でも最初は何で自分が中学校勤務なんだと思いましたがね。特別支援畑で育ってきましたから。きっと諸戸教頭先生も同じでしょう?何で俺が特別支援学校なんだって思いませんでしたか?」
「はい。正直そう思いました」
北村の声には不思議な安心感がある。横に座る安房校長に目をやりつつ、北村課長が校長だったら良かったのにと叶わぬ思いを抱く。
「全ては必然です。きっと諸戸教頭先生のこれからに必要なことを学べる貴重な機会だと思います。安房校長をサポートしながら諸戸先生も成長していってくださいね」北村課長が笑顔で話し終えた時、会議室の扉が3回ノックされた。
「おっ、来ましたね」
「失礼します。」高めの声が聞こえた。
「どうぞ」北村課長が答える。
「遅れてすみません。・・・っとっとおっと・・・セーフ」
お茶が入ったコップの、表面が大きく波打っている。お盆が若干濡れているのを見るとアウトだろうと諸戸は思った。改めて会議室に入ってきた人物に目をやる。短めの髪に黒縁眼鏡。身長は170㎝くらいだろうか。タイトめのスーツをきちっと着こなしている。マスクをしているがきっとその下は笑顔だろう。諸戸が今まで会ったことのある指導主事とは雰囲気が違う。
お盆をテーブルに置き、あーこぼれちゃったかーと独り言のように呟く様子を見てもかなりの変わり者なのかもしれない。
その時、諸戸の脳裏にある光景が思い出された。もしや・・・。
諸戸は目の前の指導主事を改めて見つめ直した。
チラついていた雪が雨に変わった音がした。(続)
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